偽英雄の伝承

お題:勇敢な伝承 制限時間:15分


 彼に関して伝わっているのは以下のような話である。

 その男は実に勇敢な男であった。
 東に暴虐なる王ありと聞けばその足で城へ向かって異議を申し立てた。西に人を喰らう狼ありて、老人にばけてその孫を喰らわんとすると聞けば行ってその狼を撃ち殺した。北に村人を贄として捧げさせ喰らう神の名を騙った怪物ありと聞けば行ってその首を刎ねた。南にその眼を見ればたちまち石になるという魔物ありと聞けば行ってその首を取り、その首でもって他数多の怪物を石に変えた。
 男は様々な伝説を持っていた。そうして同時に妻も多くあった。

 しかしながら今目の前にいる老人は、それを聞くとケタケタと笑った。
「とんでもない!」
 私が憮然として、「何を笑っているのです」と問うと、老人は気味悪くニタァと笑った。しわくちゃの顔であり、もうきっと原形はとどめていないのであろう。若き頃の顔を想像することは難い。
「その男はねえ。大して勇敢でもなかったのだよ。私はその男をよおく知っている。その男はただの臆病者さ。女の心臓を持ってこいと言われたものの、人を殺すのが怖くなっていつも狩っている猪を撃ち殺した。その猪だって、はじめはとんと怯えたもんさ。その程度の男だよ、そいつはね」
 客人はいよいよ怪しく見えた。どうしてこんな伝承になるような男のことを、この老人は、さも見てきたかのように言うのか。
 ――ただの気違いだろう。無碍に帰れと言っても帰らなさそうな奴だから、適当に話を合わせて満足させる他あるまい。
「では、どうしてこのように伝承が多く残されているのです?」
「それはねぇ、男が臆病だったことに繋がっていてね。女の心臓を持ってこいと命じたのは魔女の女王だった。猪の心臓だってことがバレちまった男は、たちまち魔女に殺されそうになる。そこで奴は命乞いをしたのさ。どうか他のなんでもやるから、私を殺さないでくれ、とまた調子のいいことをね。男は顔ばっかりはよくてね! 運のいいんだか悪いんだか女王は未亡人でさ、王にはもう先立たれてた。男が欲しかったんだよ、女王は。しかし臆病者を夫にとりたくもなくてねぇ。『古今東西の英雄達の如き活躍をしてきなさいよ。そうしたら私の夫にしてあげる。それが嫌なら死んでもらうしかないわねえ』そうしてケタケタ笑ったのさ。男は自分の死にえらく臆病だった。あんまり臆病だったもんで、頭ばっかりよく働いた。それではっと気づいたのさ。……わかるかい?」
 私が口を真一文字に結んで開かないのを見ると、老婆は少し声を潜めて続けた。
「何も実際しなくていい。文献をちょちょっと書き直してやれば、それで充分だとね」
 そうして老人はケタケタと笑った。
「なんでそんなことを知ってるかって顔だね。いいよ、教えてあげよう。私がその女王だったのさ」
 彼女は眼をギラギラと光らせた。
 いよいよキナくさい話になってきた。どうもそう簡単に帰ってくれる人間ではなさそうだ。随分な妄想癖だと私は内心笑っていた。一体何年生きているとでも言うつもりだ?
「もうざっと百は越えてるさ」
 はっと私が顔を上げると、老婆は見透かしたような目をして私を見ていた。「随分前に数えるのも止めちまったよ」相変わらずニタニタと笑っている。
 どうやら私が喋っていい時間が来たらしいと見えた。ひとつため息をついて、私はやっと口を開いた。
「そのね、貴女が確かに女王だったとして。どうしてこんな辺鄙な古本屋になど来たのです?」
「決まってるじゃないか」
 その瞬間彼女の目が大きく見開かれ、ギラギラと輝いた。色素の薄まったような目玉は水晶のように光を反射していた。皺の多いその身体の中で、瞳だけが唯一かつての美しさの名残を見せていた。
「探して欲しいのさ。あたしを捨てて出て行った、あの男をね」



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