うたうたいの少年

お題:天才の快楽 制限時間:30分


 自分に酔ったような声だ、と、涼は思った。

 彼の歌が放課後の校舎に響き渡る。拡声器もないのにそれは随分下の階まで響いてくる。夕日が傾いて世界が朱色に染まっている。
 下校時刻のほんの数分前。まるで下校を促す放送のようだ。涼は動かしていたペンを止めた。それから原稿用紙をたたむ。静かな室内に紙のこすれる音が響いた。図書室の外では、部活帰りだろう、生徒たちの足音と喋り声が増えだしていた。
 皆月が歌うのは、決まってこの時間だ。
 部活に所属していない彼は、普段どこにいたものか、大体授業の時以外はふらっと姿を消している。仮面の如く変わらない表情。大して端麗というわけでもなく、ごく一般的な、もの静かな男子生徒。合唱か吹奏楽か、どちらかの活動が終わったあと、音楽の消えた校舎に、彼は天上から歌を響かせる。屋上の手摺にそっと手を乗せて、下校時刻の五分前、優しいメロディが降ってくる。曲目は毎回違う。今日は――『荒れ野の果てに』だった、か。
 カウンターテナーというんだっけ。一人ぼっちの部室を片づけながら、そんなことを考える。音楽の知識は乏しい。だけど彼が男性にしては非常に高音域を出していることくらいは、わかる。普段からあのように高いわけではない。どういう喉をしているんだろうか。彼の喉にはちゃんと喉仏があった。
 すっかり机の上が片付くと、彼女はひとつ息をついた。一人しかいないと、部誌を出そうという気もなんだか削がれてしまう。小説はなかなか進まなかった。

 照明の落ちた校舎をとぼとぼと歩いていると、なぜだか不安にかられる。カツン、カツン、と自分の足音が校舎に反響した。窓から差し込んでくる、斜めの光が頬を濡らす。
 心臓が一つ、ドクリ、と跳ねた。
 彼の歌が終わると、校舎はすっかり息を潜めてしまう。まるで子守唄だった。その歌が終わる頃に、この校舎は眠ってしまうのだ。そして彼は別に、そうしようと思って歌っているのではないのだ。
 後ろから、階段を降りてくる音がした。ゆっくりとその存在が近付いてくる。背筋がぞわりとした。思わず、振り返る。
 そこにあったのは皆月の無表情だった。意図せずして張りつめた糸が、ふっと緩んだ。授業以外でこのクラスメイトを見るのは、珍しい気がする。彼は神出鬼没だった。
「……篠原さん、部活、ですか?」
 目が合ったから話をしなければ、とでも思ったのだろう。涼が頷くと、彼はすっと目を細めた。
「お疲れ様です」
 彼は少しだけ速度を上げて、涼の隣に並んだ。図書室を引き上げたときよりも、更に夕暮れは深くなっている。
「あのさ。聞いてみたかったんだけど」
「なんでしょう」
 小首をかしげる、その声はごく普通の、敢えていうなら多少子どもっぽい響きを残した、少年の声だった。
「皆月くんって、……この時間まで、何して過ごしてるの?」
「ああ、それですか」
 彼は一つため息をついた。嫌だったらいいよ、と付け加えたが、いいえ、そういうわけではないんですけど、と、また彼は目を細めた。
「新校舎の屋上から、音楽室を見ているんです」
「……へっ?」
 この学校はそこそこ古くて、建て増しした新校舎と旧校舎が、渡り廊下でつながる形になっている。確かに、新校舎の屋上からは、丁度音楽室の窓が見えた。
「元はね、僕、合唱部にいたんですけど。歌うの、好きだから。合唱にあわない、らしくて、退部しました。でも、やっぱり、歌いたくて。一人で歌おうと思ったんですけど、音楽の部活がやってるときに、別の音楽がしたら、嫌でしょ。だから、終わるまで、待ってるんです」
「……一人の、部活みたいなもの?」
「まあ、そんなものです。初めは、怒られたんですけど。先生に。次第に、許されるようになってきました。でも、その理由がちょっとおかしくて」
「なんだったの?」
「僕が歌うようになってから、どの部活もちゃんと、下校時刻になったら活動を止めるようになったそうです」
 不思議ですね、と彼は言った。その目が細められる。どうも、よく彼は目を細めた。癖なのかもしれない。視力が悪いという話は、聞いたことがなかったが。



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