無題

お題:忘れたい絶望 制限時間:30分


 これは夢だと、そんな思考だけははっきりしていた。
 四肢が勝手に動いている。過去の記憶をなぞるように、一挙一動、間違えないように。それはもう一つの型だった。心臓や息遣い、瞬きの回数。全て、変わらない。変化し得るのは思考だけだった。人形の視界から世界を見ている。その手がナイフを取った。そのナイフが肉を切る。鮮血が刃を伝い、腕に垂れた。

 そこで、いつも夢は終わる。

 目覚めてすぐは、何も見えない。目覚ましがなくても、夜明けの少し前には目覚める。睡眠は随分、短くなっていた。寝転がって、ベッドライトのスイッチを押した。ほんの少し、眩しい。橙に近い優しい光が、枕元を照らす。布団から左腕を出しても、真っ赤に濡れているようなことはない。ふう、と息を吐く。
 ここまでは毎日、同じ。
 どうも二度寝するような気分になれなくて、そのまま起き上がった。今日はあまり暖かくないらしい。暖房のついていない部屋は寒かった。もう一度布団を被ろうかと逡巡したが、意を決してベッドから降りる。
 だんだん目が慣れてきていた。物の少ない六畳程の部屋は、ベッドライトだけでも十分だ。どうも今日は酷く寒い。椅子にかけておいたカーディガンを羽織った。机の側へ来たついでに、カーテンを開けた。
 白み始めた紺色の空に、星がいくつかちらついている。西向きの窓の向こうに、高い建物はあまりない。
 少し嫌な予感がして、机に乗ると、窓を開け、身を乗り出した。澄んだ空気が肌を打った。街はまだ眠っている。電灯もそう多くない所だった。空を見ると昔住んでいた場所よりも随分星が多い。しかし見渡しても、月はなかった。
 身震いした。寒さのせいだったか、それとも。
 窓を閉めて、机から降りた。その時目の前にあった扉が、ガタガタと音を立てた。開けてくれ、とでも言うように。男の声がする。喚き散らしている。鍵はかけているから、入れないはずだった。身がすくんだ。布団を被って、耳をふさいで、縮こまれたら幾分楽だろうに。
 五分程、男はそこにいた。しかし諦めたのか、どこかへ行った。体からふっと力が抜ける。

 新月の日なのを、忘れていた。多分ベッドは血で汚れてしまった。父に怒られるだろうか、そう考えて、首を振った。もう彼はいないのだ。母が起きだす前に、洗ってしまわなくては。驚く程ずれない周期は、どこか呪いのようでもあった。

 この家に男などいない。わかっているのだ。夢の中、肉を裂いた感触が蘇る。それは本当に夢だったのだろうか。
 もうすっかり昔のことだ。


うまくタイトルがつけられずあえて無題という感じの作品です。


よければ一言いただけるととても嬉しいです。