前は門限があると言ってきた割に、今日のノルベールはやけにゼルギウスを引き留めたがった。
あともう少し。大丈夫だから。前もって報告しておけば門限だって破っても構わないのだ。そう言ってきたが、今までそんな風に長居したがることはなかった。もうほとんど話すことも尽きていたのに。
――家にいるはずの、シェスティは大丈夫だろうか。自分のいないことに気が付いて変な男が家に押しかけようとしてはいないだろうか。彼女のことを考えて、はたと気が付く。
昨日も今日も、彼女は買い出しをしなかった。食材はほとんど尽きていたようなのに。
「――帰る」
そう言って、ノルベールを無視して会計をした。酒も料理も、空けてしまってからもうずいぶん経っている。
「ちょ、待てよ!」
背中にかかる声を無視して、宿舎へと戻る。
「ただいま」
そう声をかけ、鍵を開けたドアの向こう、明かりはついていなかった。普段ならすぐに玄関にやってくるはずの姿が、ない。
寝ているのか――いや。人の気配そのものがない。
しんとして物音ひとつしない部屋の中、リビングの明かりをつければぽつんと置かれた置手紙。
「ああ、もう、折角いい機会だと思ったのに」
気が付けばノルベールが部屋の中にいた。どうやらついてきていたのだろう。少し息が切れていた。
「――お前、」
思わず睨みつけるが、「引き留めるように言ってきたのは彼女の方だ」と首を振られる。数日前、ノルベールを呼び出した日。――あのときか、と合点がいった。動揺してうやむやにしてしまったが、もう少しちゃんと問い詰めるべきだった――と後悔する。
「あのな――|前に言っただろ《・・・・・・・》。サキュバスだぞ、あいつ。どれだけ害がなさそうって言ったって、何考えてるか全然わからん。彼女に害がなかったとしても、周囲がそうだとは限らない。できれば友人から離れて欲しいと思っても仕方ないだろう」
「……彼女は――」
ゼルギウスの反論を聞かず、ノルベールは首を振った。
「わかってるわかってる。お前なりに信頼してるんだろう。そこまで必死になってるの見て、なお邪魔するほど僕だって野暮じゃないさ」
それはどこか呆れたような調子でもあった。
「どこに向かったか、知っているか」
ノルベールは何もかも諦めたかのように、首を振る。
「森――じゃないかな。サキュバスの根城はあの辺にあるって話だから」
「そうか」
ゼルギウスはそれだけ言って、外してあった装備を手早くつけた。それから、部屋を飛び出して行った。
――どういう事情なのかは知らない。彼女がこうして出て行ったことも。自分に何も伝えたがらないままに出て行ったことも。ただ彼女が自分に正体を隠そうとしていることだけはわかる。きっと自分が行けばその秘密が暴かれてしまうような事情なのだろう。
思いつめたように震えた字。どことなく帰ることのできない未来を予想したような文面。行先――ノルベールの言を信じるのであれば、森。そのような危険のある場所に彼女一人で行かせるわけにはいかない。自分はすでに彼女の依頼を受けた護衛なのだから。
――――いや。そうではない。契約などどうでもよかった。仮に彼女が勝手にギルドを通して契約破棄を行っていたとしても。自分はこうして、彼女を追いかけていた。
それなりに時を過ごした自分よりも、ちょっとだけ会話を交わした程度である友人の方が遥かに彼女に関する情報を得ているようで腹立たしい。けれど今はそれどころではない。行先の手がかりがあることを喜ぶべきだろう。
駆ける。魔力はなくとも、魔術などなくとも、戦えるように。ひたすらに鍛えてきた身体を駆って。
「……せめて、鍵、閉めていけよな」
残されたノルベールは、一人苦笑する。
夜の鐘が、鳴っていた。
シェスティが茫然としている間に、女王が魔素を編み、魔術の行使を始める。――〔|催淫《チャーム》〕。驚くほど強い魔力で編み上げられる精密なそれは、シェスティが無意識に放出するそれとは同名でこそあるがほとんど別の魔術。完全な精神汚染。
女王の場合、欲を抱く対象を自分以外に操作することもできる。
けれど――当然、それはゼルギウスに届かない。
「――魔術が効かないっていうの、本当だったのねえ」
その話はどこから聞いたのか、もしかするとエーレリアあたりが軽く接触を試みていたのかもしれない。
〔催淫〕は目に見える魔術ではないから、ゼルギウスにはよくわからなかったようだが、その言葉で何かされたことはわかったらしい。
「何をしたのかはわからないが、俺に対する魔術は通らない。……サキュバスに、俺に対する有効手段はない」
ゼルギウスがシェスティの肩をそっと引き寄せた。背中越しに、ゼルギウスの存在を感じる。――こんな状況なのに、悲しいかな、頬に熱が集まるのが止められない。
「俺はシェスティを迎えに来ただけだ。何のつもりかは知らんが、お前に俺は止められない」
シェスティは、混乱していて話について行けないでいた。
(ゼルギウスさんが、私を? どうして?)
間違いなく当事者のはずなのにまるで蚊帳の外である。ゼルギウスの言葉に、女王は焦るでもなく、むしろ笑みを深めた。
「んー――つまり、『あなたに対して』でなければいいんでしょう?」
彼女はまた魔術を編み始める。今度は、別の――
(まずい)
そう思った次の瞬間――咄嗟に、ゼルギウスがシェスティを庇うように抱え込む。
直後、浮遊感。ほんの僅か、足元が失われ、落ちるような感覚がして。それが止んでも、うまく着地できずに思わず座り込む。
――真っ白な、何もない四角の部屋。気づけばシェスティはそこにいた。抱き留められたままの恰好で。
見上げれば、ゼルギウスはそのままの状態で、辺りを困惑したように見渡している。足元の地面だけ、先ほどまで立っていたのと変わりない。夜の平原から一気にうつったせいで、目がちかちかとした。
亜空間生成。女王の扱う、魔術の形をした〈|個人技能《アビリティ》〉。空間を亜空間に反転させて、一定の範囲内を閉じ込める。対象は、シェスティとゼルギウスに対したもの――ではない。その周囲の空間一帯。
空間に対する魔術は、ゼルギウスの〈魔力遮断〉で無効になる魔術の範囲外である。
ここは先ほどまでとは、別次元にある空間。出るためには、術者の――女王による開放が必要となる。術者からは中の状態を知覚可能で、普通に使えば最強格の拘束魔術。
――女王はだいたい、ロクなことに使わなかったが。
『――聞こえてる、シェスティ?』
女王の声が頭の中で鳴り響く。女王は念属性魔術の使い手でもあった。シェスティからは念を飛ばせないけれど、一方的にその声が受信させられる。
『わたくしとしては、あなたの魔力が回復して、その魔力でちょっとベルグシュタットのコたちを懲らしめらるのを手伝ってくれたら、別にいいのよ。別に、嫌って言ってることを無理強いする気はないわ。
っていうわけで……その男を|喰べる《・・・》まで、出してあげないことにするわ。なるべくはやく、済ませてくれると嬉しいのだけど、ウブなあなたにはちょっと難しいのかしら?
……そっちのカレには聞こえていない……みたいね。ちゃんと伝えといてよ。じゃあ、頑張って』
一方的に言うだけ言って、ぶつり、と交信が途切れる。とは言っても、声はしないだけで、多分見られているのだ。頭を抱えた。――もう。お母様は、ほんとうに。こんなことばっかりする。
嫌な予感がしていた。この空間。入ってしまったら最後だとわかっていたけれど、咄嗟に対応できなかった。
ため息をついたシェスティの耳に、ガキン、と硬質な音が聞こえた。はたとそちらを見れば、ゼルギウスはすでに壁際まで移動していて、剣で床や壁をたたき割れないか試しているらしかった。
「……駄目だな。やはり空間干渉系は突破できないか」
ある程度試したところで、諦めたらしい。剣を仕舞って、シェスティのもとへと戻ってきた。
「シェスティ、何か彼女は言っていたのか? 俺には念話は通じないのだが」
そう問いかけてくる目線は、まっすぐなものだった。思わず目を逸らす。顔が熱い。きっと怪訝な顔をされているだろう。
「ええと……はい。ええと……その」
まさか――まさか『あなたとできたら出してくれると言っていました』とは到底言えない。絶対に言えない。死んでも言えない。更に血が上る。ああもう。きっと首まで赤いのだろう。
ゼルギウスも何か察したのか、気まずげに目を逸らされた。
「……。ええと、どうしてここに? ノルベールさんと、一緒に飲みに行っていたのではなかったのですか」
とりあえず適当な話題をふる。
「途中で引きあげてきた。普段さっさと帰ろうとするのに今日に限って引き留めるから、変だと思った」
(ノ、ノルベールさん……)
引き留めるのはうまくいかなかったらしい。思わず嘆息した。けれど確かに今までは夜の鐘が鳴る前に帰路についていたのだ。不自然なのは否めなかった。
また沈黙がおりる。なんとなくそわそわとして、とりあえずゼルギウスの傍まで近づいた。芝生は局所的で、二人が元々立っていたところから降りれば、壁と同じ材質と思しき硬質な白い床だ。こつん、と自分の足音が響く。
一人ぶんの距離感で、向かい合う。
旅に出てすぐの道中での沈黙とも、数日前にゼルギウスが不機嫌だった日の沈黙とも違う、どうにも互いに落ち着かない雰囲気の無言が流れる。
――ああ、もう、わかっている。私が何か言わなくては始まらない。
今の状況を見ているであろう女王に、再度突っつかれる前に、早いこと行動を起こさなくてはならない。
ひとつ深呼吸をしてから、意を決してシェスティは口を開く。