また、あの人のこと。
電話越しの友人の声は、呆れた空気でいっぱいだった。顔を見なくても表情が浮かぶ。目を閉じて、ふぅ、と息を吐く。イメージはいつだって鮮明だ。
声だって聞いたことはない、そんな人に憧れる気持ちを、彼女には理解できない。理解できないとわかってはいたけれども、話さずにはいられなかった。
我ながら、おかしいとは思うけど。
何度繰り返した言葉だろうか。その度に毎度毎度新しいため息が聞こえる。
何度も聞いたよ。そう言いながらも、彼女は毎回、もういいから、などと言わずに、最後まで聞いてくれる。
毎日の電話ではなくて、多くて週に二回くらい、だいたいは二週間に一度くらい。それでも何年も続いた関係であれば、自然と回数も積み重なって、そうして彼について新しい話題ができるわけではない。
で、今日はどうしたの。何か変化があったの。
毎朝、窓の下を自転車で走り抜けていく男の人。
自転車に乗って、一瞬で消えてしまう。その一瞬が、日常をひどく鮮やかに魅せていた。
今日、パリッパリに糊きいたままのワイシャツ着てたの。汗かいてて、早速汚れてそうだったけど。
そんなことを見られているなんて、顔も名前も知らない女から、知られたら少し気味が悪いかもしれない。話したこともないまま、そのまま嫌われてしまうのかもしれない。
そういうのが怖いから、最初の一回目以降、いつもカーテンは閉めたままで、朝の八時が近くなったら、こっそりと隙間から外を見下ろす。
ずれがちだった体内時計は、あの日からすっかり健康的だった。
まあ、それはなんというか。遠目からよくわかったね、あんた。いっそ尊敬する。
全く敬ってはいない口調で、彼女が言う。
視力は一以上なのが、取り柄だから。
毎日の一瞬は、いくら頑張っても、一週間で五秒にも満たないくらいで、だからその話はそれきり、電話のはじめにして五分以内に終わる。あとはとりとめもない世間話だ。
あの小説が面白かったとか。あの映画が見てみたいとか。そんな。
あんたは。
すっかり会話のタネも尽きてしまうと、通話の最後に、彼女が言う。
それはいつも、決まった言葉だ。
話してみたいと、思わないの。
そう聞かれて、返す言葉もいつも決まっている。
いいの。私なんかじゃ、どうせ。
そう。なら、いいの。変なこと聞いて、ごめんね。
そう言って、通話が終わる。
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「またダメだった、か」
ごろりとベッドの上に、体を投げ出す。
昔から男性的な顔をしていると言われていた。
私は。
彼女のことが。