恋する淫魔と大剣使いの傭兵

一章 | 01 | いつもの日常の、いつもの朝


 その日も朝、なんとか早くに起きることができた。

 朝は少し苦手だ。早起きするのは結構大変。たまに寝坊してしまって怒られる。今日はちゃんと間に合った。

 身支度を整えて、軽い朝ごはんをとってから外へ出る。家主であり店主である、いわば上司はもう店へ向かった後だ。

 彼女は居候させてもらっている身だった。住もうと思えば住める空き家もあるにはあったのだが、女の一人暮らしが不安だと言って、居候という形にさせてもらっているのだ。
 鍵をかけてから、通りを少しだけ急いで歩く。銀色の髪が朝陽を受けて、きらきらと揺れる。

 いくつかの道を曲がって大通りへ出ると、開店準備をする人たちでもう既ににぎわっていた。
 足早に人々の間をすり抜けて、軽い挨拶をする少女の腕を、掴んでまで引き留める者がいる。

「おはようシェスティちゃん、今日も可愛いね」

 毎朝声をかけてくる男性だった。今日は随分と熱烈だ。スキンシップの多い男ではあるが、朝いちばんからこうというのは珍しいかもしれない。苦笑しつつ、とりあえず穏便に挨拶を返す。

「おはようございます」

「今日はどこへ? 遊びに行くなら付き合うけど」

「……ご存知でしょう、ヘルムさん。お仕事です」

 手を振り払えたらいいのだが、一度掴まれると、相手は大して力を入れていないつもりでもシェスティには振り払えない。とりあえずぶんぶんと掴まれた腕を振る。離してもらえない。そうこうしていると、

「あーッ! ヘルム! 手ェ出すなって言ってるでしょ!」

 上から救いの声が降ってきた。見上げれば近くの食事処の二階テラスから、女性が見下ろしていた。彼女は男と幼馴染だという。

「げ、ナータ……」

 と彼は呟いて、ぱっと手を離す。その隙にぱっと距離を離した。すみません、という意味で女性にお辞儀をすると、彼女も慣れたもので、苦笑しながら手をひらりとふった。この男がシェスティに絡んでくると、こうして助けてくれるのは大概彼女だった。

 声をかけてくるのはこの男に限らない。ナータには、「シェスティに決まった人がいればちょっとは落ち着くかなぁ」と言われたことがある。でもそれだけのためにお付き合いすることもできませんし、とシェスティが返したところ、初心だよね、と真っ赤になった頬をからかわれた。

 それでも仕方ない。シェスティは本心から、それだけのために男性と付き合おうとは思えなかった。幸いにして、この町、テンベルクの人々――特に女性――は、彼女が少し――ほんの少し、男性から好かれやすい体質であることを理解したうえで、守ってくれる人がいる。

 通りを歩きながら挨拶をしつつ、目的の建物にたどり着く。
 古い木製のドアを押すと、ベルがからんころんと音を立てた。奥にいた店主が顔を上げた。笑いかけて、挨拶をする。

「おはようございます、モニカさん。少し遅れました、すみません」

「おはよう、シェスティ。大丈夫、こんなの遅刻にははいらないさ」

 ありがとうございます、と笑いかけると、彼女もふわりと笑い返した。それから奥に行って、エプロンをつける。まず最初に着手するのは掃除だった。といっても彼女がここで働きだしてからというものの、汚れはあまり多くない。だから店主は毎日毎日しなくてもいいんだよと言うのだが、それでも彼女は、こうやってこまめに掃除していれば大掃除もしなくていいでしょうと笑う。なによりこうしているのが好きだった。本当はそれが一番の理由だ。

 シェスティの一日は、こうしてはじまる。

 掃除が終わると、次に棚に並んだ薬の在庫の確認を行う。それから調合依頼も確認した。どれほど追加で調合する必要があるかは、店主も把握してはいたが、たまに抜けがあるということで一応シェスティも確認している。といっても、大抵は店主のみで事足りる。

 シェスティにとって重要なのは、この後どの程度薬草を採取する必要があるかを把握することだ。ここ最近、どうも回復薬が常に在庫ギリギリになっている。あと、魔除けの隠密薬も回復薬ほどではないが減っていた。

「クライン草、多めに採っておいたほうがいいですか?」

「そうだねえ。あっちにある大きい籠ひとつ、いっぱいになるまで採ってもらおうか」

「はい」

「フリーエン草は」

「いつものに半分くらいでいいよ」

「わかりました」

「しんどくなったら、後で私もいくからね。無理しちゃだめだよ」

 大丈夫ですって、と苦笑して返しながら、籠と軍手を持って、店の裏口から外へ出る。開店まではあと一時間ほどあった。それより前には済まさないといけない。

 裏手の庭は大きな木を中心とした薬草園だ。といっても、木があるほかは一見ただの小さな花畑だというようにも見えるかもしれない。しかしそこで栽培されているのは全て薬草だった。

 手入れはモニカによるものだったが、採取だけは任されていた。シェスティは一目見て、非常によく似たクライン草とギフト草を見分けることができる。

 このふたつは、丁寧に引っこ抜けば根っこの形で素人でも判別がつく――ギフト草は根の先に、ぷっくりした赤い球根があるが、クライン草にはそれがない――のだが、どちらも非常に根が細く切れやすいせいで、大抵の場合は千切れてしまう。素人が判断できる部分を見ることは素人では難しい。

 よく見れば葉っぱが光を通す具合などが違っているのだから、モニカのように慣れた者であればそれだけでわかるのだが、そうなるまでには最低でも二年は採集の修行を積むものだ、と言われていた。しかしシェスティは天性の才能で、引っこ抜くこともなく、どんな薬草でも見分けることができるのだ。

「……ふぅ……」

 ギフト草を避けながら、籠いっぱいのクライン草を集めると、彼女は一度休憩することにした。さわさわと木の葉が揺れる音と、遠くに聞こえる町の人々の声。朝のこの音を聴いているのが好きだった。

 薬草園は大通りには面していなかったが、塀があるわけではなく、子供でも簡単に乗り越えられるような小さな木の柵があるだけだ。薬屋の建物の反対側は住宅街である。侵入しようと思えばたやすく入ることができるのだが、この薬草園は――いや、ここに限らず薬草園を持つような者は必ずそうするのだが――癒しの効果のある薬草と、それによく似た毒をもつ草を必ず混ぜて植えていたから、素人では危なくて盗むことができない。一応他にもいくつか、害意ある者の侵入を知らせる結界がはられていたりする。そういうわけで、侵入者の心配をした囲いは必要ない。むしろ採光のために避けられている節さえある。

 シェスティは、薬草を見分けることは得意だが、肉体労働は得意ではない。彼女の体は非常に細く、体力もあまりなかった。薬草の採取までやるようになってからもう一年半は経過しているのに、全然体力がつかないもので、パン屋のおじさんなどはしばしばシェスティが食べきれないような量をサービスしようとする。

(パンを食べたところで、体力なんてつけようがないのに……)

 彼女はそんなおじさんのことを思い出してひとり苦笑してから、少し周囲を見回した。

 朝の誰もいない薬草園。遠く、子供の泣き声がする。足音はしなかった。モニカは調合に忙しいらしく、出てくる気配はない。

 それを確認してゆっくりと立ち上がると、薬草園を囲う小さな柵の外に咲く、小さな花へと手をかざした。薬草類ではない、何の効果もない雑草。

「……ごめんなさい」

 彼女は小さく一言呟いて、それからほんの少しだけ、花に触れた手が光る。そうして、一瞬後には、先ほどまで元気に美しく咲いていたその花はしおれかけていた。

 貰いすぎた。彼女は額を押さえる。もう一度謝罪の言葉を頭の中で唱えた。こんなに一つの花から貰うつもりではなかった。雑草抜きはモニカにも手が空いていたら頼まれていた仕事だったから、モニカに何か言われることはない。ただ、その花を殺してしまったような罪悪感が、シェスティの中に募っていた。

 パンをたくさん食べて、体を動かしたところで、シェスティの体力はつかない。パンを食べたところで、真の意味でその血肉とはならない。

 彼女が生命力を維持するためには、こうして他の生物の精力を奪わなくてはならない。

 ――シェスティは〈人間トールマン〉ではない。魔族であった。それも、サキュバスであった。

 種としての彼女にとって、本来の食事は、他者の生命力である。そしてサキュバスたちにとって最も効率のいい吸収方法が、人間族、特に男の体液・・である。サキュバスが〈淫魔〉とも呼ばれるのは、その性質上、男をかどかわし、性交を行うものだからだ。

 しかしシェスティは――サキュバスとして成体となってから二年、未だ処女であった。



 サキュバスというものは、通常多大な力を持つ『女王』の庇護のもと、行為を行うに十分でない幼年期を過ごし、成体となるとそこを出て、人間族の集落へと向かうのが慣例となっている。

 シェスティもその例に倣い、城を出た。彼女は元々、「誰とでも性交する」というのに抵抗があったのだが、言い出せなかった。というのも種族内には『一人に恋をして添い遂げた同族』をかなり嘲笑する風潮があったのである。定番の笑い話の一つと言っていい。そういう生き方は、反面教師として参考にしましょうとまで言われる類のものである。

 しかしながら漠然とではあるがそういう者に憧れていたシェスティは、からかわれたくないがために、同郷の者に出会わぬよう、少し遠目の場所へと向かう。

 そうしてたどり着いた小さな村で、シェスティは出会ったのだ。『物語』というものに。

 語り手は流れの吟遊詩人。吟じられたのは恋の物語だった。元々抱いていた漠然とした憧れと、「男は食物」とでもいうような風潮への小さな反発心が、その物語によってはっきりとした像を結ぶ。彼女は恋にあこがれたことを自覚した。そうして心に決めた。

 ――はじめては好きな人とがいい!

 それは種としてははっきり言って自殺行為である。そもそも一般に、魔族というのは人間族と違って食事からは生命力を得られない。いや、得られないわけではないが、彼らは物理世界フィジカルの肉体への依存度がかなり低く、主に精神世界アストラルの肉体に依っている。食事というのは物理世界の肉体に干渉するものだ。精神世界の肉体を主とする魔族というものは、その生命を維持するために大量の魔力を要する。そしてその魔力の収集方法が、種によってさまざまなのであるが、ことサキュバスにおいては男の体液からが最も効率よく、逆に言えば、他の方法を用いると非常に効率が悪いのである。

 しかも、これは魔族全般に言えることだが、魔力の自家発電のようなことはできない。かなりの例外を除き、魔族というのは他種の生物の生命力を何らかの形で奪わなくては自力でその命を維持できないものであった。

 魔力が枯渇しては死に到る。それなのに、彼女は願ったのだ。貞淑であることを。

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