恋する淫魔と大剣使いの傭兵

三章 | 08 | エルフの男との邂逅


 同郷のサキュバスがシェスティのもとを訪れた数日後。

 あの夜の翌日はゼルギウスを見るたびに顔が真っ赤になったりもしていたけれど、流石にどうにか一日で落ち着いた。

 あれ以来ゼルギウスから触れられたことはない。よほど変に思われたのだろうか。
 ――ゼルギウスの方から掘り返してくることはないし、もしかすると妄想だったのかもしれないという気さえしてきたくらいである。
 それか、ゼルギウスにとっては何も特別なことではなくて、取り立てて深い意味はなかったのか――。

 とにかく、シェスティなりには大事件だった出来事などなかったかのように、ごく代り映えのない日常が続いていた。

 あのサキュバスの方も接触はなく、シェスティはたまってきたお金からあとどのくらい旅ができそうかを計算する毎日である。

 今日は喫茶店は定休日で、一日特に予定はなかった。シェスティは一人、商店街に来ていた。目的は食材の買い出しである。

 本来は家で引きこもっているべきなのかもしれないけれど、ゼルギウスに付き合ってもらおうとすると、彼が帰ってきてから買い出しをして、それから調理、ということになって、時間がかかるものは作れない。

 あれ以降、ゼルギウスは何度かノルベールと共に食事をしに行っていた。そうなる日はだいたい事前に伝えてくれていたけれど、やっぱり一人で自分の作った料理を食べるのは、誰かとの食卓を経験した後だとどことなく寂しい。その反動もあって、ゼルギウスがいる時の料理は少し品目を増やして、できるだけ共に食卓を囲みたくなってしまっていた。

 今夜はうちで食べると言っていた。せっかく時間があるのだから、それなりに凝ったものを作りたい。そう思って昼間に一人、外に出てきていたのだ。ついでに減ってきた花の手入れのための肥料なども買うつもりである。

 もう昼時を過ぎていたけれど、遅めの昼食をとる人はちらほらと見える。足早に店を見て回り、目当てのものを購入していく。

 だいたい目的を果たした――というところで、向こうから来る、見たことのある人物に気が付いた。

「……あれ、君は」

 相手もシェスティに気が付いて近寄ってきた。先日出会った、エルフの男。

「こんにちは、ノルベールさん。奇遇ですね」

 ぺこり、と頭を下げる。他の男ならば無視するか挨拶もそこそこに立ち去るのだが、彼はゼルギウスの旧友だというから、あまり邪見に振舞うのもよくないと思い、シェスティは足を止めた。

 ただ、目は合わせない。失礼だとはわかっているが、視線を合わせることで〔催淫〕の効きは強くなる。魔術の素人だというわけではなさそうだから、こうして距離を取って話す分には問題ないだろうけれど、余計なことはしたくない。

「やあ。えっと……えっと、ゼルギウスの……依頼主の……」

 ノルベールはしばらく頭に手を当てて悩んでいたが、数秒の後、

「すまない、君、名前はなんていうんだっけ」

 と苦笑いしながら聞いてきた。

「シェスティです」

 シェスティも苦笑して返す。

「人の名前、覚えるのが苦手なんだ。本当にすまない」

 その言い方に悪意は感じられない。おそらく本当に苦手なのだろう。

「あ、いえ、前お会いした時も、きちんとお話したわけではありませんでしたし」

「次は多分、覚えてると思う。……多分」

 その立ち振る舞いに、変に媚びるところがないことがわかって、シェスティは少しほっとする。

「今日はゼルギウスと一緒じゃないのかい?」

「はい。えっと、ゼルギウスさんはいつも通り、討伐依頼で外に行かれています。今日は少し、遅くなるかもしれないとお聞きしています」

 というのも、シェスティが休みの日は、シェスティを迎えに行くために夕前の鐘よりも前に帰ってくる必要がないのだ。そのため、普段よりも少し遠出して大型の魔獣を討伐するのだという。
 それを聞くと、ノルベールはふぅん、と言って、そのまま押し黙る。

「……あの、ゼルギウスさんに御用でしたら、帰ってきた時にお伝えしておきましょうか?」

 そう提案すると、ノルベールはいや、と首を横に振った。

「用があるのは君に対してなんだ。……そうだな、ちょうどいいのかもしれない」

 独り言のように呟いてから、彼はシェスティの持っていた買い物袋を一つ奪い取るようにして持った。

「えっ、あの!?」

「話したいことがあるんだ。宿舎って、あっちだったよね?」

 そう言うと、さっさと歩いて行ってしまう。シェスティは逡巡したけれど、夕食のための野菜たちを人質にとられてしまっていた。
 ノルベールの歩は早く、急いで追いかけないと間に合わない。シェスティは慌てて、その背中が見えなくなってしまう前に声をかける。

「……ノルベールさんっ、そっち、逆ですっ!」

 振り返ったノルベールは、バツの悪そうな顔をして戻ってきた。そうして、シェスティについてくるようになった。
 道すがら袋を返して欲しいと言っても、どうやら取り合う気はないようで。

(言い寄ってくるために、って雰囲気じゃないし、……それにゼルギウスさんのご友人なんだから、家に上げても問題はない、よね)

 そう納得して、二人で宿舎へと向かう。もちろん、ある程度の距離はたもった状態で。

 毎日こまめに部屋を掃除していたから、慌てて片付ける必要はない。突然の客人をとりあえず椅子についてもらうと、急いでお茶を用意する。夜に時折飲むこともあったから、一応茶葉の用意はあった。

「そう気を遣ってもらわなくても大丈夫だよ」

 と彼は言うが、そういうわけにもいかない。シェスティとしては、客人をもてなすのに食卓につかせているのもどうかと思っていたが、この家に応接間はないので致し方ない。

「ええと、お待たせしました」

「いや、ありがとう」

 ティーカップとポットを置いて、シェスティも席につく。椅子は四つあったけれど、ノルベールと垂直の位置にある椅子に座った。

「……それで、お話って?」

 そう問いかけるが、ノルベールは出されたお茶の香りをかいでからゆっくりと口につけ、「うん、美味しいね」などとお茶を嗜んでいる。

 お茶の色は美しい琥珀色。シェスティとしても自信をもって淹れているけれど、何もお茶を飲みにきたわけではなかろうに――と苦笑する。

 ことり、とカップを置いてから、ようやく彼はシェスティに向き直った。

「数日前に――そう、あれは、君とはじめて出会った日かな」

 ぽつり、と言って、彼は一旦言葉を切った。
 目を閉じて、何かを思い出すようにして。――そこでようやく、シェスティは嫌な予感がしはじめていた。

「ゼルギウスと別れてさ。風にでも当たろうと思って、一人で散歩してたんだ。――そこでね。空をさ。飛んでる影を、見た」

 はじめは、鳥か何かかと思った。けれどそれにしては影の形がおかしくて。魔術を使って、注視して。彼は訥々と語る。

「――魔族、だろうね。女の」

「……町に、魔族がいたのですか? それも、そんな堂々と飛んだりして……」

 知らず、硬い声になった。握りこぶしをぎゅっと握って。知らないふり。けれどこれが――意味のないことのような、気がする。

「うん。でね。それが、飛んでいくから。どこに行くのかと思って――見てたんだ」

 ぞくり、とした。思わずその目をちらりと伺う。

 ――静かな、冷たい瞳。

「その魔族が向かう先で、窓を開けて、女性が空を見ていた。その魔族は、まっすぐそこへ行って、窓から部屋に入った。……静かだったよ。
 そうして、しばらくしてから、何事もなかったように、出て行った」

 彼はもう一度お茶に口をつけた。その余韻を味わっているようだった。彼がカップを空にしても、シェスティは何も言うことができなかった。

「ねえ、向こうの部屋って、君の部屋でいいのかい、――シェスティ」

 彼は問いかけているのじゃなくて、確認している。そう確信して、ふぅ、とため息をついた。誤魔化しは効かなさそうだと観念する。

「……はい」

 ただ、そう言って頷いた。――だって。きっと私のことも、見られていたのだろうから。

「……うん。思ったより素直で従順で、助かったよ」

 ふ、と彼は息をついた。

「いや。初めて会った時から、なんとなく嫌なものだとは思ってた。何かはわからないけれど、常に魔術を行使しているような風だったし」

「わかって、いたんですか」

「そりゃ、魔術師の端くれだからね。むしろ今までよくヒトのふりができてたね」

 〔催淫〕を含む心属性の魔術は、人間だと適正がある者がほとんどいない。それに自然属性の魔術とは違って、精神属性の魔術――特に心属性は、その効果が目に見える形では現れない。そのため、感知自体がしづらいのである。

「あまり……その、普段の〔催淫〕は、勝手に発されるもので、そう強い魔術ではないので。自分からはほとんど魔術を使いませんし」

 使わないというよりも魔力の関係で使えないのだが。そのことは黙っておく。彼は気に留めた風もなく、語り続けた。

「ゼルギウスは君のこと、疑っていないようだったけど、あいつ、魔術が効かないしな。それをいいことに、そのだだもれな魔術がバレないって思った君が、あいつのことを騙していいように使ってるんじゃないかって思って、しばらく観察させてもらった」

「…………」

 どう、返したらいいのか。シェスティは返答に詰まっていた。彼の意図が、わからなくて。

 ノルベールはおそらく、魔術師としてはかなりの使い手だ。だからきっと、シェスティを殺してしまおうと思えばできるはずだった。けれど、そんな素振りもなく、彼は語り続ける。

「君の意図はいまいちわからなかったけど。まあいい。とにかく今日の一つ目は君が魔族の中でも何なのか、確かめること」

 そう言って、彼はにわかに立ち上がる。

「僕の予想じゃ、多分、サキュバスだろう。なんとなく――『君に惹かれる感覚』がある。君みたいなのは、別に好みでもなんでもないのに」

 そうしてシェスティの腕をつかんで、服に手をかけた。

「――僕の予想が当たってるなら、体のどこかに魔術紋があるだろ。確認させろ」

 そう言って服を脱がされそうになる。突然のことに硬直しかけていたシェスティは、慌てて手を振りほどこうとした。

「だっ――だめです、それはだめ! サキュバスなことは認めます、認めますからっ、それはやめてくださいっ!」

「――そう言ってデーモンだったりしたら、肝心なところで対策を間違えるかもしれないじゃないか」

 なおも服を脱がそうとするエルフの男を、精一杯突き放す。彼の腕は一般的に見ても比較的細いほうに見えたのだが、見た目よりも力があった。それでもなお必死に止めて。

「だめです、本当にっ――あれ、あれは〔催淫〕効果があるのでっ!」

 魔術紋の存在そのものは、ちょっと高度な魔術の書物を読めば書いてあることかもしれないが、その効果については、案外魔族以外に知られていない。
 というより、どこかのサキュバスが、意図的に魔術紋の存在を明かしたうえで、その強力な効果について伏せるように情報を流したのだろう。――警戒されないように。それが一種の武器であり切り札であるとバレないように。
 とは言え、それを今隠してはいられない。

「……〔抵抗〕魔術なら使っている。心属性に適性はないけど、多少は――」

「違います、そんな簡素なのじゃ理性が吹っ飛んで精魂尽き果てるまで出そうとしちゃいますから、ほんと――」

 それでようやくノルベールの手が止まった。先ほどまでも間違いなくあったけれど、その存在を口にされたことではっきりと認識した。彼の〔抵抗〕魔術は、『見るからに』不十分だった。

「……その。|インキュバス《同族》でも、念入りに準備したうえで、〔抵抗〕をかけて、それでもちょっと効果があるくらいの強度なんです。だから、その――いやです」

「…………」

 彼はシェスティから距離を取ると、ため息をつきながら椅子に座りなおした。シェスティも少し荒くなっていた息を整えてから、口を開く。

「……。あの。サキュバスだってわかっても……殺さない、んですか」

「まあ――君、ゼルギウスと契約してるだろ。君を傷つけちゃうとさ、あいつが契約不履行でギルドから違約金取られるし、なにより、あいつから剣向けられる可能性がでてくる。それは困る」

 そう返されて納得する。確かにゼルギウスは、シェスティを護衛するという契約を結んでいる。それは結んでしまった以上、シェスティが何であれ有効な契約だ。

「その。サキュバスなことは、認めます。ただ、……ゼルギウスさんには、言わないで欲しいんです」

 お願いします、と頭を下げる。虫のいい願いだとはわかっている。けれど、どうしても。
 まだ、この旅を、続けていたくて。

 ノルベールは、冷たくシェスティを見下ろしてしばらく押し黙っていた。

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