|夜始めの鐘《午後六時》が鳴って少しした頃、ゼルギウスは帰ってきた。どうにか間に合った、と安心しながら、シェスティは彼を迎える。
「お帰りなさい、今日はシチューを作ったんですよ。少し煮込み時間が足りないかもしれませんが、それなりには――」
と。その顔を見て。言葉が中途で途切れる。
彼はシェスティを見下ろして。眉間にしわを寄せていた。
「あの、何か――」
言いかけて、その瞳がシェスティの顔を見ているのではないことに気が付く。その視線は、じっと一点を見つめていた。胸元――ペンダントを。
「それは?」
ぽつり、とこぼれるような言葉。
「あ、えっと……昼間、ノルベールさんとお会いして。えっと。綺麗だなと思って見ていたら、買っていただいてしまって……」
咄嗟に言った言葉は、半分嘘で半分本当だ。自分で買った――とか、もっとちゃんと嘘をついたらよかった、と咄嗟に後悔する。どうしてか、わからないけれど。
「……そうか。あいつが……」
そう言って、ほんの少しゼルギウスは考え込んでいるようだった。
「あの、えっと、そう、高くないものでしたので……自分で買うのは浪費かなと思って悩んでいただけで……」
何に言い訳しているのだろう――という気分になりながら弁解する。ゼルギウスはまたしばらく無表情に沈黙していたが、やがてため息をついた。
「……家の中では、つけないほうがいい」
「え――と、そう、ですか?」
「…………家事の間に傷がつくかもしれない」
「あ……そ、そうですね。外しておきます」
言われて納得し、ペンダントを外すと部屋に置いてきた。流石に外に出るときには付けることになるだろうけれど。
「食事にするか。……着替えたらすぐ食べよう」
戻ってきたシェスティに、ゼルギウスはほんの少し笑いかけた。普段通りの硬質な声だったけれど、どことなく――さっきよりも柔らかいような気がする。
あるいは。さっきだけ、どこか硬かったのかも、しれない。
「あ、はいっ! すぐご準備しますね」
彼の言葉に笑顔を返して、閉じておいた鍋の蓋をあけて。皿を片手に軽くシチューをかき混ぜながら。
まだ壊れていない日々に、ひどく安心している自分を、自覚する。
食事をとりながら、「そういえば」と少し気になっていたことを切り出した。
「ノルベールさんとゼルギウスさんって、どういったお知り合いなんですか?」
ゼルギウスは手を止めて、少しシェスティの顔を伺った――ように見えた。しかしすぐにそれは引っ込んでしまう。気のせいだったのだろうか、そう思っているうちに、ゼルギウスは「そうだな」と語り始める。
「ノルベールはフェルバックの伯爵家の産まれだ」
突然なんだか違う世界の話が始まってしまったような気がして驚く。
「…………え、えっと、隣の国の、貴族の方……ですか」
フェルバックは王家を中心とした貴族政をとっており、その貴族階級の中にはエルフの一族も存在している。むしろエルフの力が強い国だと言ってもいい。
「ああ。まあ、と言っても三男坊だが。
俺の父がその伯爵家――サロート家に仕える騎士だった。と言っても平民の出の、雇われだ。剣の腕を見込まれて、住み込みで護衛をやっていた。父に剣の手ほどきを受ける合間に、ノルベールの遊び相手として付き合わされていた」
「幼馴染だったんですね」
「ああ。あいつは魔術に長けていたが、俺を全く魔術で打ち負かせないので何度も突っかかられてな」
無駄だと言っても聞かずに魔術をぶつけ続けた末、仲良くなった――もとい、ノルベールが折れたのだという。
「あいつはかなり凄まじい魔術の才能があった。研究熱心だったし、俺を打ち負かそうとして相当努力を積んだと聞いている。
しかし貴族という階級ではいまいちそれを活かしきれなくてな。跡取りとしては期待されていなかったが、それでも家にいると貴族の責務というのに巻き込まれる。それで、あいつが十三の頃に出奔した」
ゼルギウスが言うには、真夜中に家出同然で出て行こうとするのを、ゼルギウスの父に見つけられ、せめて護衛は連れていけと言われ、ゼルギウスまで一緒に追い出されてしまったのだという。
「以来二人で旅をしていたが、フェルバックでは自由に生きにくかったのもあって、ティアラントに来た。数年間は共にいたのだが、ノルベールは別に護衛がいなくても問題ないということがわかった。むしろ研究にあたっては一人のほうがやりやすいと感じていたらしい。俺にもやりたいことがあったんでな、そのまま別れた」
……なんとも――護衛として出たわりには、てきとうな話である。
「それであんなに仲が良さげだったんですね」
「そうだな。……今はこちらで魔道具師として一定の地位も得、実家からも旅をすることについてある程度承認を受けている、と聞いている」
とりあえず、なんとなくは腑に落ちる。マイペースで、魔術師然としたエルフのノルベールと、魔術とはかけ離れたゼルギウスと。どこで知り合ったのかいまいち予想がつかなかったのだが、そういう経緯だったのか。
「今仰っていたゼルギウスさんのしたいことというのは、もうできたのですか?」
話の中で気になったことを問うと、ゼルギウスは少し硬直した。そうして珍しく、目を逸らされる。
「……いや」
どうやら微妙に言いにくいことだったらしい。突っ込んだことを聞いてしまって申し訳ないと謝ると、彼は首を横に振った。
「大したことじゃない。――その。よく馬鹿にされるのだが」
「?」
思わず、首を傾げる。ゼルギウスは少し言い淀み、悩んだ後、意を決したように口を開いた。
「父に、憧れていた」
そうして出てきた言葉は、そうおかしなことでもないようで、しかし文脈としてはなんだかおかしい。
「えっと……?」
思わず問い返すと、ゼルギウスは語りだした。
「父は――サロート家に仕えてはいたが、正確には土地づきの騎士ではない」
「……?」
よくわからない、という顔をしたシェスティに、ゼルギウスが解説する。ティアラントとフェルバックでは多少事情が違うが、基本的に騎士というのは、土地を護るものだ。
この国、ティアラントでは騎士というのは役所の一機関のようなものになる。これに対してフェルバックでは土地を有する貴族に仕える者になる。
どちらにしても、その剣はその土地を迫害する者に対して向けられる。こういった騎士になるためには、国ごとに決められた試験に受かる必要がある。
「ただ、騎士、というのはもう一種類あって――これは、個人に忠誠を誓うものだ。たった一人の命令を絶対として、その一人を護る。こちらの『騎士』になるためには試験はいらないが、忠誠を誓う相手に〔騎士の誓い〕をしなくてはならない。
……物語に描かれる『騎士』は、土地づきのものと個人づきのものを混同している節があるようだな」
〔騎士の誓い〕には魔術的な契約を必要とし、また非常に精神的な密接性も必要とされるという。二人以上の者相手に誓いを立てることはできない。ただ、立ててしまえば、互いの危機を知ることができたり、魔力をある程度受け渡すことができる〈ライン〉が成立するなどの利点がある。主には精神的なものが中心らしいが。
「俺の父は、サロート伯爵夫人づきの侍女――俺の母に対し、〔騎士の誓い〕を結んでいた。母がサロート家に仕えていたから、父もサロート家にいて、伯爵家の護衛をしていた」
非常に仲睦まじい夫婦だったのだという。曰く、父の一目惚れで。何度も通い詰めて、そうして誓いを結んだ。
「剣の手ほどきを受けながら、父によく、言われていた。護るべきものがあったほうが強くなれると。お前も誰かを――できれば生涯にわたって、たった一人の、それも女性を護る『騎士』となるといいと。
――実際、父は鬼のように強かった。魔術にも長けていたが、魔術無しでも、俺はいまだ、父に太刀打ちできないように思う」
ゼルギウスはそこまで言うと、コップに手を付けて、水を飲んだ。そうして一息ついてから、また口を開く。
「何度も言われていたから、俺も『騎士』というものになりたいと思っていた。父は旅をしているうちに母と出会ったのだという。それで俺も、旅をしていたら、そうして護りたい人に出会えるのかもしれないと思って」
それが。やりたいことだと言われて。
「な、なんだか……」
ゼルギウスは後悔するように、眉間にしわを寄せている。恥ずかしい、のかもしれない。確かに人によっては夢見がちだと取るかもしれない。けれど。
「す、素敵ですね……! お父様も、ゼルギウスさんも、ほんとうに……」
シェスティはどきどきと胸が高鳴ってしまっていた。
――まるで素敵な恋物語みたい、なんて。
「いや――実際のところ、俺は結局そう言いながら、別に女性と深く関わることもなく、ただ剣の腕ばかり磨いてきた。旅に出てからそれなりに年もとって、それなりの腕にはなったが、父の言うような女性には――」
彼はそこで言葉を切った。そうして難しい顔をする。
下りた沈黙の中、シェスティもはたと気が付いた。
(それってつまり私も……対象外ってこと……かあ……)
突きつけられた現実に、高鳴っていたはずの胸が今度はちくりと痛む。
――いや、わかっていたはず。このひとが私のことを好きになってくれることなんて本当に少ない確率で。
大きな期待はしない、そう覚悟してたつもりだったじゃない。
シェスティは笑顔を作る。
「いえ、でも、いずれ素敵な人と出会ったときに、剣の腕が不十分では護り切れません。
けど、ゼルギウスさんは、たくさんいた魔獣だって、簡単に倒してしまいます。護衛をして頂いていて、命の危険を感じたことはありません。きっと誰かのための騎士になられても、きちんとその方を護り切れると、思います。
だから……今まで、そうして剣の腕を磨かれてきたことは、決して無駄ではなかったと思います」
そう素直に言うと、ゼルギウスはシェスティの目を見て、ほんの少し目を見開いてから――柔らかく笑んだ。
「そう、か。いや――貴女は、馬鹿にしないのだな」
「そんな、馬鹿になんてしません! 私――私、いつかゼルギウスさんがそんな素敵な方に出会えるよう、応援しています」
ああ、でも、旅の途中に見つけてしまったら、少し困ってしまうかもしれないですね、とおどけたように笑ってみせて。胸の痛みを、気にしないようにつとめた。
「いや、そうなっても貴女のことを優先しよう」
それでも、微笑みを返されると、少し頬が熱くなる。誤魔化そうとして慌てて口を開く。
「で、でも、少し羨ましいです」
「何がだろうか」
そう問い返されて、少し回りきっていない頭のままで言葉を続ける。
「ゼルギウスさんに、誓いを立てていただける方が」
そう言って。言ってしまった後で。
(こ――これ、なんか、なんか告白みたいじゃないっ――!?)
そう気が付いたけれど後の祭りだ。ゼルギウスは少し驚いたような表情をしてこちらを見ている。
「あっ……あのっ、わ、私、その、物語の――騎士様に、憧れていてっ……! なんだか、ゼルギウスさんが騎士になるって、すごくしっくりきて……それだけで、変な意味はなくって……!」
思わず手をぶんぶんと振りながら弁解する。するとゼルギウスは苦笑して、
「いや、変な意味はないのはわかっている」
と返してきた。それはそれで、少し複雑だけれど。ゼルギウスは話を続ける。
「それに、俺は騎士にはなれない。――さっき言ったように、〔騎士の誓い〕は魔術的な契約だ。……俺は魔術が使えないから、その誓いを立てることができない」
口約束ならできるんだがな、と彼は嘆息する。それ以上のことはできない。
「ノルベールには、『魔術が使えないのに誓いを立てる相手を探して旅をするのはちょっと夢見がちがすぎるんじゃないか』と言われた。……そうなのかもしれないな」
自嘲気味に彼は笑う。あまりこういった表情は見たことがなかった。それで少しだけ、気になってしまって。
「……いえ、そんなこと、ありません」
真面目な顔で、シェスティは語りかける。
「だって、ゼルギウスさんはそれでも、できることをされてきたんですから。諦めることなんて、ないと思います。きっと口約束でもいいって人はいます」
だって、私がそうだもの――とは言わないけれど。
「きっと、諦めなかったら、出会えます。だから」
笑顔で。
「そんな風に、自嘲なさらないでください」
――ああ。今日の心は本当に、上がったり下がったり忙しい。
本当に。サキュバスは、人の心を操るものなのだから、もっと落ち着いていなくちゃいけないのに。
――私だったら口約束でも全く構わないのに。なんて、思うのを、隠して。
「……ありがとう」
ゼルギウスは微笑んで、それから食事を再開した。
その後食事が終わるまで、シェスティは何も言えなかった。