さて、女王の亜空間を出て一件落着というわけにはいかない。
「もう、魔力、まだ半分くらいしかないじゃないの。あなたならそれでいいでしょうけど」
女王は少し不服そうだが、シェスティは曲がりなりとも娘であり、彼女のことは把握している。少なくともシェスティが知る限りでは最強の魔力を有し多属性の魔術を操るサキュバスであり――その魔力に比例して性欲も物凄く強い。
おそらくあれで言われるがままにし始めていたらなんとなくその気になって乱入してきていたに違いない。断固拒否である。
隣でエーレリアが苦笑していた。
「まあ――いいわ。あなたの〈|個人能力《アビリティ》〉があるから仕方ないわね。何度閉じ込めても出てこれちゃうし。
それで、シェスティ。ちゃんと魔力回復もできたことだし、『懲らしめる』のにはついて来てくれるわよね?」
にっこりと笑って彼女は言った。
まあ、確かに『食堂』に突っ込まれることなく魔力は得られたのだから別にいいと言えばいいのだけれど、どことなく腑に落ちず、シェスティはつい渋ってしまった。なんとなく、言う通りにするのが癪、という程度のことであるが。
そうすると、ゼルギウスが代わりに一歩前へ出た。
「……聞いていいだろうか。その――『懲らしめる』というのは、どういうことなんだ?」
「あら……知らないでここまで来たの?」
女王が呆れたように言った後、さらさらと事情を語った。
「ベルグシュタットのコたちってば、ほんと加減を知らないんだから」
そう呟く女王も、おそらく今から加減を知らないレベルで殴り込みに行くのだが。
ゼルギウスがふむ、と納得したうえで、口を開いた。
「そうだな。俺を連れていくのならば、お前がシェスティを戦力として使うのを俺も止めない」
え、とシェスティが驚いているうちに、ゼルギウスが話を進める。
「お前の言う、ベルグシュタットのサキュバスは俺も世話になった。本拠地を叩ける機会はそう多くない。幸い俺は魔術が効かない体質だから、足手まといになることもないだろう」
「そう、ねぇ。……飛んでいけないのがネックだけれど、まあ、それ以外は別に問題ないかしら」
「ちょ……っと、ゼルギウスさんっ、そんな……」
またしても、シェスティを一人置いてけぼりで話を進められて慌てるが、ゼルギウスはシェスティに笑顔を向けた。
「シェスティが否定しないということは、嘘の話ではないのだろう。それに――」
と言葉を切って。
「――あれは、あの時のことは、許される所業では、なかった」
静かにそう言われて。その瞳が遠く、何かを思い出すようにシェスティの目を覗き込む。
――テンベルクでのこと、途中で立ち寄った村のこと。そのことだけでは決してない。きっともっと昔の――ふたりが、こうして出会う前のこと。
その背中に、ぼんやりとした記憶が重なった。
シェスティが言葉を返せずにいると、そのままゼルギウスは向き直って話を続けた。
「何かこちら側に攻撃しようとしたり、シェスティに無理をさせようとしたら確実に殺す」
「……ふふ、まあ、二人が揃ってたらこっちには有効打がないもの。そんな無駄なことはしないわ」
女王が面白そうに笑ってそう返して、一時的な共同戦線が組まれることが決まった。
その後、朝になってから二人で急いでベルグシュタットへと戻った。期日までに戻れるか曖昧だったため、少し早めだが宿舎は引き上げておくことになった。夜の間は流石にどうしようもないので、ギルドが開いたタイミングですぐに手続きをすることになった。
幸いにして、普段から掃除を怠っていなかったおかげで、大した手間もかからずに済んだ。
ゼルギウスにその手続きをしてもらっている間、急いで勤めていた喫茶店に出向く。こちらはまだ勤務日が残っていた。どうにか「急ぎの用事で町を離れることになった」と伝える。とりあえず休みという扱いにしてもらって、残った分は後ほど戻って穴埋めするということにした。
――なお、借りていた家にノルベールがずっといてくれたようで、謝罪を求められたのだが、シェスティが約束を破られたことを引き合いに出すと気まずげに目を逸らされた。
「……いや、でも、結局どっちにしろ問題なかったんじゃないのか」
「そういう問題じゃありませんっ!」
道中はゼルギウスが馬を借り、それに乗せてもらうことになった。のんびりと歩いてやってきた道のりも、早駆けすれば丸一日でどうにか辿り着く。
戦いは一方的だった。ベルグシュタットのサキュバスたちはフェルトシュテルンの者よりも全体的に若く、戦いなれていなかったらしい。
ベルグシュタットの山の中、その城は破壊的に荒らされた。シェスティの母よりも随分若い女王は、しばらく責め苦を浴びせられた挙句、町の領主たち――特にブルーメンガルデン地区の者たちを取り込み、彼女らが好き放題やっても咎められぬように動かしていたということがわかった。
領主たちは解任され、また選任されなおすのだという。ベルグシュタットのサキュバスたちも、しばらくは動けないだろう。
また、シェスティが二年前――あの村の惨劇のことを問うたところ、これもベルグシュタットのサキュバスたちのやったことだとわかった。どうやら魔獣を使ってどのくらいの力が発揮できるのか、試していただけだったらしい。
当時はテンベルクの領主しか支配下に入れられておらず、やりすぎて目をつけられたと反省したため、以降あれほどの惨劇は起こらなかったのだという。
地方の違うサキュバスであるシェスティがいたことは知らなかったという。
――領域侵犯に対する報復だったのであれば、自責の念を抱きながらも納得することができたのかもしれない。けれど、そんなことはなかったのだ。『試したかった』などという軽い理由で、あの場所は奪われた。
シェスティはそのことを語った女王を燃やして、燃やして、燃やし尽くしてやりたい衝動に駆られた。――けれど、ゼルギウスがその手を止めた。
「貴女の手を、汚す必要はない。彼女は生かしておいて、二度と同じことを繰り返さぬよう監視をしておいた方がいい――」
そう、彼は言った。たくさんの血に濡れた大剣が、ほんのわずか、震えていた。
おしおき――という名の蹂躙が終わった後、二人はテンベルクへと戻ってきていた。
シェスティはとりあえずモニカの家を訪れたのだが、昼前で、モニカはまだ仕事中だ。当然、中には誰もいない。けれどシェスティの部屋だった場所に入ってみれば、ほとんど変わり映えのない状態で掃除がなれていた。
シェスティが食料として育てていた花は、手入れされて美しく咲いていた。モニカが丁寧に世話をしてくれていたらしい。きっとシェスティがいる時よりも長く咲き続けるに違いない。
部屋に荷物を置いて出てくると、ゼルギウスは玄関先でじっと待っていた。
「シェスティ、すまないがギルドに向かっていいだろうか。諸々の報告をしておきたい」
そう問われて、手ぶらになったシェスティはきょとんとした。
「え、っと、構いませんが……その、何も、私を待たなくても」
シェスティはなんとなく、ゼルギウスとはここで別れるのだと思い込んでいた。なんせ自分はサキュバスである。それがはっきりしてしまったのだから、契約の解除は当然だろうと。
「……? 依頼主を待つのは当然だろう」
しかしゼルギウスは何を言っているのか、といった調子でそう返してくる。
「え、えっと……その、私、……サキュバス、ですよ? その……いやだな、やめたいな、と思って、ないんですか?」
「……ああ――いや、そんなことはない。言っただろう、たとえ貴女が何であったとしても、俺は貴女を護る」
彼は柔らかく微笑んだ。
「だから、貴女が良いのなら、何も問題はない」
そうしてさらりとシェスティの手を取って。
「行こう。……まだ行っていない場所は沢山ある。海は、きっと楽しんでもらえるだろう」
そう言ってそのまま歩き出そうとする。
「えっ――と! あの!」
シェスティは目をぐるぐるさせながらどうにか手を振り払った。どうにも、恥ずかしくて。
「私――ほ、報告についていっても仕方ありませんから、その……モ、モニカさんに、あ、挨拶、してきます……!」
そんなシェスティを面白そうに彼は見つめる。
「そうか。……終わったら、ここで待っていたらいいか?」
「や、宿に行っていてください……!」
逃げ出すようにシェスティは走っていった。久しぶりに出した彼女の全力も、しかしあっさりと追いつかれて。
「この町は、道が複雑で迷いそうだ。……貴女が、ギルドまで連れていってくれ」
「…………わ、わかりました」
渋々といった調子で承諾するシェスティに、ゼルギウスはまた柔らかく微笑みかけるのだった。
そうして。次の日から、また旅は再開される。
まだ契約を結んでからひと月で。これからたくさんの時が残されている。
この契約が終わった時。どうなるかわからないけれど。
――まだまだ、世界はきっと美しいもので溢れているのだ。