恋する淫魔と大剣使いの傭兵

一章 | 05 | 決心


 からん、と店の戸が音を立てて開いて、店番をしていたシェスティははっと顔を上げる。そこにはここ数日何度も目で追っていた長身の男が立っていて、シェスティを見ると生真面目に一礼をした。

「ゼルギウスさん! ご、ご無事だとは聞いていたのですが」

「すみません。ご心配をおかけしていたようでしたので、ご挨拶をと」

「そ、そんな、すみません。モニカさん……店長からご無事と伺っていたのですが、なんだかよくない噂が立ってしまったようで……」

 シェスティの耳に届く噂というのは、大概がモニカから聞くもので、その他は訪れた客の語るものである。それによれば、ゼルギウスがサキュバスに誑かされて生き残ったのだとか言われていた。店主自身は自分の診察の腕まで含めて疑われているようで気分が悪い。

「魔族の関与を考慮して抵抗薬を何人かに渡そうとしましたが、受け取ってくれたのは隊長だけでした。おそらく強い〔催淫〕だったのでしょう、それでも自我を失わずいられたのはこちら薬のおかげです」

「ありがとうございます。店長にも、後ほど伝えておきますね」

 そう微笑んで返すと、ゼルギウスも強張っていた表情を少しだけ緩めた。この店では奇異の視線で見られることがないこともあったのだろう。シェスティは知らぬことだが、実際ゼルギウスはいわれのない誹謗を受けはじめていた。

「今後は、どうなさるんですか? ブルーメンシュタットに戻られるのですか?」

「いえ、この町を出た後はそのままフェルトシュテルンの方へ向かおうと思います」

「フェルトシュテルンへ……?」

 テンベルクはベルグシュタット地方の中でも比較的東側に位置している。更に東に行くとヴァルタウ川があり、それを越えればフェルトシュテルン地方だ。

「はい。つい少し前まで、フェルトシュテルン地方を中心に依頼を受けていたので、どちらかといえばそちらの方が信頼があって顔がきくのです。ベルグシュタット地方でも活動していこうと思っていたのですが、この調子だとしばらくは難しそうですね」

「す、すぐに発たれるのですか?」

「……いえ、お恥ずかしながら、報酬が出る前提で薬を購入したりしたもので、当座の資金がないのです。なのでおそらく向こう一週間ほどは滞在することとなると思います」

 俺でも何かやれることがあるといいのですが、とゼルギウスは嘆息する。
 曰く、ギルドには銀行制度もあるのだが、預けた金を引き出すための本人確認として、ちょっとした簡単な魔術を使うのである。ほとんど誰でもできるような簡素なものなのだが、ゼルギウスは〈技能〉によって魔術を通さない体質であるが故に、その『ちょっとした』魔術でさえ行使ができない。そのため魔術による本人確認ができず、預けた支部でのみ引き落としができる、という形になってしまうのだという。フェルトシュテルンまでたどり着きさえすれば何かと都合がつくらしいが、そこまでたどり着くための先立つものがない。

「そう……そう、ですか。お仕事、あるといいですね」

 そう言いながら、シェスティは自分が「すぐには見つからないといいのに」と思っていることに気が付いて自己嫌悪する。はやくこの町から離れられた方が、ゼルギウスにとっては幸せだ。俯いてしまったのをどう取ったのか、ゼルギウスはやはり生真面目に礼を言って去って行った。



 その後いつも通り仕事を終え、日が暮れる前に帰宅して。シェスティは夕食を済ませた後、部屋で花を見ながらぼんやりと考え事をしていた。

 ゼルギウスと会った日の夜は、お気に入りの小説を読んだりして、一人たいそう盛り上がったものだった。何度か読んだせいでほとんど一時間と経たずに一冊読み切ることができるのだが、そうして何度目かわからない再読をした後、ベッドに伏せて足をばたばたしてみたりした。声は出さなかったので隣の部屋にいたはずのモニカからは特に何も言われなかったが、そこそこに恥ずかしい姿である。

 今はそういう気分にもなれなかった。なんとなく手をつけた小説も目が滑ってしまうようで、集中できない。結局読書を諦めて、窓の傍に置いた椅子に座って花を眺めている。

 鉢植えにはシェスティが花屋で購入して、育ててきた花が咲いている。買う時に世話の仕方を聞いて、シェスティなりに手を尽くしていた。春夏秋冬、花の尽きぬように、さまざまな種のものを育てている。なかなか美しい光景だったけれど、すべてこれは『食料』だった。

 春は花多い時期で、シェスティにとっては過ごしやすい。ちょうど美しく咲いたトルペの花から、ほんの少しだけ――枯らしてしまわぬよう、しおれてしまわぬよう。最小限の精力を奪う。見た目にはそう変化がないが、シェスティの行為は確実に花の命を蝕んでいく。

 ――たとえば。シェスティは考える。

 たとえば彼――ゼルギウスさん相手だったら、私はキスができるだろうか。こんな風に無駄に他のものの命を奪うことなく、生きていくための糧を得られるだろうか。

 彼女はそう考えて、かぶりを振った。

 シェスティだって彼に『きちんと』恋をしているとは言い難い。自分の経験の乏しさも、それに起因する色眼鏡も、ちゃんと自覚している。これだけで体を許せるかというと、そうではない、と彼女は思う。

 それに、あの人は落ち着いていて、素敵で、シェスティの理想で、何より絶対に〔催淫〕されないのだけれど、――だからこそ、あの人は私を想ってくれない。

(まあ、〔催淫〕で作られた気持ちに付け入るのも嫌なんだけど……)

 願わくば魔術の介さないところで、――それこそ物語のように、ほんとうに育まれた感情を向けられたい。それはとても難しいことだ。

 ゼルギウスと自分の間に、そんな感情を育むための時間なんて存在していない。

 ――ただ、ただ。

 彼に対する色眼鏡も、恋に恋をするような自分のことも、ちゃんと自覚した上で、それでも。

 それでも、『あともう少し話していたい』という気持ちがあるのも確かで――。

 シェスティの思考を破ったのは、ノックの音だった。

「シェスティ? 今、ちょっといいかい?」

 声をかけてきたのは家主――モニカだった。いつの間に帰ってきていたのだろう。慌てて居住まいを正し、「はい」と声をかけると、彼女は遠慮なくドアを開けて入ってきた。

「どうかしましたか? ……あ、夕食、お気に召しませんでした?」

 この家で夕食を作るのは、はやめに帰るシェスティの仕事になっていた。帰る時間が大幅にずれるからいつも別々にとっている。

「あ、いや、それはいつも通り美味しかったよ。ありがとね」

 彼女はにっこり笑って、それから部屋の中央に据えられた椅子に腰かけた。ちょっといいかい、そう声をかけた割には、それなりの話になりそうだ、とシェスティは感じた。

「……なんでしょう?」

 そう声をかけると、モニカは少しだけ逡巡したようだったが、意を決したように口を開いた。

「シェスティ、あんたさ、……これから、どうするんだい?」

「どうする、って」

 首を傾げる。どうする、と問われても、明日も明後日も、シェスティはここで薬屋を手伝っている自分しか想像ができていなかった。確かにシェスティは〔製薬〕系の魔術がそもそも全然使えなくて、薬屋の仕事といっても、薬草採取しかしていない。だからこのまま生きていけるとは思っていなかったけど――。

 店主はシェスティの考えていることがわかったのか、苦笑いして首を振った。

「あの男――ゼルギウスといったか、彼のことだよ。随分ご執心じゃないのかい」

「ごっ……ご執しっ……」

 シェスティは一気に顔が熱くなったのを感じた。そんなんじゃありません、そう言いたかったけれど、確かに店主に対しては何度か大丈夫だろうかと零していたし、ここ数日は店番の間も少しぼんやりとしていたかもしれない。それで口をぱくぱくと動かすだけで、何も言えなくなってしまった。それを見て店主はけらけらと面白そうに笑う。

「そうじゃないか」

「い、いえ、気になってるのはっ、認めますけどっ! 彼みたいな方、この町に、いないから、それでっ! それだけですっ!」

「それだけかい? それにしちゃあ昼間、随分と寂しそうな顔してたけど」

「~~~!!!」

 手をばたばたと振るシェスティを見て、更に店主は笑った。

「まあ、悪評が立ったって言っても元々あの生真面目そうな性格だ、すぐに稼げるだろうし、さっさと出て行っちまうよ。もう会えないかもしれないよ? あんた、旅ができるようなタマじゃないじゃないか」

「…………そう、そうですけど」

 だからと言って、彼のことを引き留めたりする理由はない。

「そうさねえ」

 俯いてつま先をじっと見つめる。店主は面白げにからかうような笑いを引っ込めて、優しく微笑んだ。

「雇っちまえばいいんじゃないのかい?」

「…………雇う? えっと、仕事を頼むってことですか? でも、お仕事なんて……」

「護衛さ。傭兵ってのはそういうのもやってるもんだ」

「ご、護衛?」

「そうそう。あんた、元々旅に憧れてたんだろ?」

 にっこりとしながら断言する彼女は、憶測などではなく確信をもってそう言っていた。こっそりとした子供らしい憧れを指摘されて、途端にさっきとは別の方向性で恥ずかしくなる。

「え、ど、どうして……」

「小説。あんたの部屋、恋愛小説と冒険小説ばっかりじゃないか」

 今度こそ顔から火が出たのじゃないかと思うほどにシェスティは赤面した。本来のサキュバスは、ある程度自分の中の心属性の魔素に基づく魔力をいじることによって赤面するもしないも自在なものなのだが、ちっとも魔力のないシェスティにそんなことはできない。

「し、しし、知ってたんですか!?」

「知ってたも何も同じ家だし、たまに掃除してやってるのはあたしだよ?」

「う、うぅ…………」

 あの中には結構夢物語の過ぎる作品もあって、なかなか他人に見られると恥ずかしいのだ。シェスティ自身はかなりの初心だったが、周囲が周囲だったせいで、自分は世の中でも結構な脳内お花畑で夢見がちな性格だと自覚している。いや、好きで――大好きで読んでいるのだが、からかわれるようなものだと思っているのだ。

「そんなに恥ずかしがることだったのかい? そりゃ済まなかったね。
 ……まあ、とにかく、あたしが言いたいのは、シェスティが旅に出て、その護衛を頼むって形で雇っちまえば、あんたはあの男と一緒にいられる、あの男はさっさとこの町を出れる、お互いいいとこづくめじゃないか」

「え、……えっと、でも、それだと、私、お店のお手伝い、辞めちゃうことに……」

 そう言うと店主はまた豪快に笑って、

「元々シェスティがいなくたって一人でやってたところだよ。いや、あんたの手伝いはすごく助かってた。そりゃいなくなったらちょっと大変になると思うよ。……けど、そう心配しなくても大丈夫さ。まだまだ元気だよ」

 とシェスティの頭をぽんぽんと撫でた。

 それでもまだ、シェスティの中ではうまく決心がついていなかった。旅への憧れ、ゼルギウスともう少し長い時間を過ごしたいという気持ち。そういったものはあったけど、ようやく慣れてきたこの町での暮らしを、手放しがたくも思っていた。

 それを見抜いたのか、モニカは更に言葉をつづけた。

「何もね、もう帰ってくるなって言うんじゃないよ。そりゃ私だって寂しいさ。でもね、一年そこらして、いやしなくったってさ、満足したなって思ったら、いつだってここに帰ってきてくれたらいい。……そんときゃ、また薬草摘みをやってもらおうかね」

「……モニカさん……」

 俯いてシェスティはそれ以上の言葉を返さなかった。モニカはゆっくりと立ち上がった。言うべきことはこれで終わりだというように。

「……ま、短く見積もってもあと数日あるんだ。そう時間があるわけじゃないけど、今日の夜いっぱい考えるくらいのことは、できるんじゃないのかい」

「…………はい」

 じゃあ、よくお休みね、と彼女は言ってドアを閉めた。お休みなさい、シェスティの声は小さくて、ドアを閉める音にかき消されてしまったかもしれない。

 布団に入って、ぼんやりとモニカの言葉を反芻する。――旅に出る、それはとても魅力的な提案だった。

 目を閉じれば、すぐに意識はまどろんでいく。

 ――やってする後悔とやらないでする後悔なら、やってする後悔のほうがきっと納得がいくと、よく物語でも見るもの。

 そう考えると、もう悩むことはないような気がしてきていた。もちろん細かい不安はたくさんある。それでも、それでも。――なにもかも、明日、話をしてみよう、と。
 確かな言葉は浮かんでいなかったけれど、いくつかのやるべきことが、眠りに落ちる直前の頭の中で渦巻いていた。

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